海外で暮らすということは、地図を広げるようなものです。知らない道も、帰りたくなる路地も、全部が自分の足跡になる。無理に格好つけず、少しずつでいいから、世界の隣に立ってみてください。
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海外未経験者にも、同年代の友人にも、少しだけ届けたい話がある。
56歳になった今、ふと思い返すのは、海外で暮らすということの、あたたかくもひりひりする感触だ。
1990年代、香港
私は香港に2年間住んだ。成田から啓徳空港へ向かうJAL便で、初めての海外だった。
日本では消費税が開始された記念すべき年である。
PSFG(国際線旅客サービス施設使用料)は券売機で日本円を投入して支払う時代。曖昧だが2,000円くらいだった記憶がある。この時代、刃渡り33センチの包丁も手持ちで機内に持ち込めた。今では考えられない話だ。
啓徳空港で金属探知機が反応したとき、女性検査員に腕を組まれ、別室へ連れていかれた。そこで半裸にさせられた。日本の常識ではない対応に、初めて「日本の論理は通用しない」と身をもって知った。苦い思い出だが、それも香港のリアルだった。
当時の香港は日本のアイドルが大人気だった。男子には吉川晃司、女子には松田聖子、河合奈保子、中森明菜。カラオケも普及していて、若者はみんな知っていた。日本企業も多く、ヤオハンや西武、そごう、大丸があった。懐かしい名前ばかりだ。アニメ、漫画も人気が出たころである。
会社のお金でプログラミング学校に通った。会計はまだ人力の手作業の時代だった。その手作業を機械ににさせようと気運が高まっていた時期。
給与から学費と住居費が天引きされ、その他の生活費は余りで賄うのだが、とても足りなかった。洗濯洗剤と水を買っただけでなくなっていた。
お腹が減れば食事が必要で、その対価として何かを支払わなければならない。お金か労働か、ということを身をもって知った時期だ。
そんなわけで、香港本社が経営していた和食店でアルバイトを始めた。料理を作る側で。これが、現在の職業のきっかけになった。
学校で数人友達ができた。偶然、同じ場所でバイトしていた男子がいた。彼はすでに寿司が握れて、全般の仕事がこなせる同年齢だった。
香港は見た目で親の収入がわかってしまう。日焼けしているか、服装、頭髪、体臭で。彼はどう考えてもいいところの坊ちゃんだった。しかも頭脳明晰、容姿端麗。
私は中華圏では20歳扱いだったので、バーやディスコにも入れた。バイト帰りにパーティーで彼に質問した。
「親お金持ちでしょ?なんでバイトしてるの?」
「お金持ちだね。これから先の時代どうなっていくと思う?」と、彼は質問で返してきた。
香港ではすでにハンディホンが普及していた。日本はポケベルの時代だ。エレクトロニクスの分野でどう変化していくか。腕時計型電話、自動運転、衛星通信、遠隔治療。みんな思いつくことを次々と挙げた。およそ今現実になっていることは、想像できていた。ただインターネットのようなものは脆弱なままだったので、「インフラどうすんだろうね」って感じだった。カプラの時代である。
当の彼はこう言った。
「でもね、食事はオートマティカルにならないよね?自動で料理させるのもむずかしいよね?俺は食で事業をしたい」。
その言葉は私に衝撃だった。ちょうど料理が楽しいと思い始めていた頃だ。彼は20年後、日本でも紹介されるほどの事業家になった。私は和食の世界に入ったが、うだつが上がらないままだった。それでも、あの言葉は今も覚えている。
彼は今の時代を見据えていたのである。自分は生活のためにまだ食に携わっているが、彼は信念で食に携わっている。
サモハンキンポーさんに会えたのは最高の思い出。
九龍城で歯の治療をしたのは貴重な思い出。
半裸にされたのは苦い思い出。
2000年、グアム
ミレニアムの年。何となくグアムに行った。ヒルトンを取ったが部屋が最悪で、交換を申し込んだけど相手にされなかった。ホテルニッコーが空いているとのことで移った。金持ったいね、と思った。持ってないけど。
ヒルトンは繁華街に歩いて行けたから便利だった。ニッコーは一番遠かった。でも移ってよかった。カバナあった。着くなり海に飛び込んだ。
海に入って溺れかけたり、ウニを踏んで刺さったままビーチで抜いたり、知らない人とビーチバレーをしたり。一人だったが、楽しかった。夜は疲れて熟睡する、2泊3日だった。
帰りのグアムの税関はザルだな、と思いつつ帰国した。
写ルンですをプールバーに置き忘れたのを思いだした。
2008年、上海
北京オリンピックの関連で上海で短期労働。香港滞在中に一度行ったが、黄砂と灰色のビルの時代だった。そのときは東京を超える大都会だと思った。中国超特急で空港から市内へ移動した。上海は日本人には好意的な印象を受けた。私は酒が飲めたので毎晩出歩いていた。
でも宿泊先のホテルは、知らない人が名刺を入れて回っていて危ないな、と思った。220Vのコンセントに100Vのシェーバーを差し込んで爆発させたのは、いい思い出だ。
その時代はまだGoogle Mapsが使えた。ホテルの自由端末でマッサージ店を探して行った先が風俗店で、慌てて逃げた。斡旋者と就業先の関係でそういう事態が明るみになるとまずいので、火遊びはしなかった。かなり道に迷ったが、ファミマがあったのでなんとかなった。
あっという間の通算4か月だった。
2015年、タイ・パッタヤー
バーツ安く、航空券も安かった気がする。バンコクでなくパッタヤーにしたのは、海が近いからだった。現実は移動がハードだった。飛行機で8時間ほど、空港からバスなどを使って待ち時間を入れると8時間くらいかかった。宿泊先は6人部屋のドミトリー。同室はベルギー人カップル2人、1日だけイギリス人男性3人、そして私。2段ベッドの枕元にセキュリティボックスが設置されていた。
先に書くと、これが今後一切貧乏旅行をしないと決めた瞬間だ。タイは今でも好きな国だ。お金があればバンコクに住みたいと思っている。
しかし泥棒が入った。私はコンデジいれた金庫が開けられて、メモリーごと持っていかれた。一緒に食事に出かけたベルギー人カップルは悲惨だった。帰ったら金庫が開いている。現金、パスポートなど。ドミトリー管理人に取り合ってもらうも、犯人は捕まるわけがない。彼らは即大使館に連絡し、その後別れて帰国した。初タイはすごく気に入ったが、残念だった。写真が残っていない。
疲れたけど楽しかった5日間。
若い時代の思い出を振り返ってみた。楽しかったこと、危なかったこと色々。
その後は台湾に年5回いくほどはまった。でも人気なりすぎて日本人だらけで楽しくなくなった。
コロナ明けから日本を離れた。
犯罪確率はパーセントで語られる。確率が低くても、本人にとっては100%だ。私は大切な写真を失った。彼らは旅を途中で終えた。必ずトラブルには遭遇する、と言われると身が引き締まる。それでも、海外に出ることをやめられなかった。
私は何か国も経験した所謂プロではない。仕事や余暇を利用して海外渡航している一般人です。
海外生活していると、いいことも悪いこともあります。日本の論理は通用しない場所で、確率は関係なく、自分の身に降りかかるものは全部リアルだ。
56歳になっても、私はまだ足を止めていない。あなたも、一歩踏み出してみてはどうだろう。








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